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熊本の教育者・志賀哲太郎…台湾で慕われる「聖人」の顕彰進む  


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明治から大正期にかけ、日本統治下の台湾に熊本から渡り、小学校の見習い教員(代用教員)として児童教育に一身をささげた日本人がいた。熊本県益城町出身の志賀哲太郎(1865-1924)で、台湾では「聖人」として敬愛されている。昨年生誕150年を迎えて以後、志賀の功績を後世に伝えようと、台湾、熊本の双方で顕彰活動が本格化している。

志賀は慶応元年に生まれた。青年期に熊本から上京し、法律を学んだ。明治29年に32歳で台湾に渡った。

その数年後、「教育に情熱を注ごう」と決意し、台中の北西部の街、大甲で、台湾人の子弟が通う公学校(小学校)の見習い教員になった。その後、59歳で死去するまで四半世紀にわたり、現地で子供たちの教育にあたった。

当時は、教育への父母の理解が得られず、就学率も高くはなかった。そんな中、志賀は日曜日になると手弁当で就学適齢期の子供たちの家を訪ねて回り、根気強く登校を勧めた。

小学校では、文具を持たない子供たちには自ら買い与えたり、学費が払えない子供には身銭を切ってでも通学させるなど、支援を惜しまなかった。

そんな努力と誠意はやがて実を結ぶ。出席率や進学率は群を抜き、大甲から台湾各界で活躍する人材を数多く輩出した。

志賀は台湾の教育界に多大な貢献をした。だが、台湾総督府の官吏による圧政と、台湾人の民族運動の高まりで、両者の板挟みに遭う。思い悩んだ末、大正13(1924)年、入水自殺した。

教え子らは志賀をしのび、山の中腹に墓碑を建てた。志賀はいつしか「大甲の聖人」と呼ばれるようになった。戦後、台湾にあった日本人墓地は一カ所に移転するため取り壊されたが、地元の住民は志賀の墓を守った。

西原村


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